河田正道の略歴
1967年(昭和42年)南海放送入社
2008年から社長、会長
2019年から2023年まで愛媛県社会福祉協議会会長
デジタル技術によるメディアの多様化
「パソコン通信とは?」
40年も前の話になりますが、当時盛んだった街づくり運動の一つの手段としてパソコン通信の利用を研究している、というニュースに接しました。
文系の自分にとって、パーソナルコンピュータいうのは遠い世界の機材でした。物珍しさもあって、首を突っ込んだのが、愛媛県庁主導の「Townタウン」、NTT主導の「まどんな」という二つのパソコン通信グループでした。
恐る恐るパソコンに触り、新しいコミュニケーション方法、街づくりの取り組みなどを勉強していきました。それから40年の通信技術の進歩、発展は目覚ましく、高度でグリーバルナICT時代を迎えています。
パソコン通信時代からお付き合いをいただいている二神重則さんから、40年前のパソコン初期のことを知っている世代が少なくなり、何か記録を残しておかないと、当時の実態がわからなくなるのではないかというお話をお聞きしました。
当時の仲間と連絡を取り合って、記録、データとして残すプロジェクトを立ち上げたいという二神さんのご意見に賛同をし、とりあえず6人でスタートを切ることになりました。
私は1944年(昭和19年)8月生まれで、80歳になりました。1967年(昭和42年)、新卒で南海放送に入社をしました。
それから18年間、報道部の記者として警察、通信部(八幡浜)、松山市政、愛媛県政などを担当しました。1985年(昭和60年)に、管理部門の経営企画部に配属になりました。
当時メディア業界で話題になっていたのは、いわゆる「ニューメディア」でした。当時ニューメディアと呼ばれていたのは衛星放送やCATV、NTTのキャプテンシステム、パソコン通信などで、マスコミ媒体のテレビ、ラジオなどの放送は、すでに「オールドメディア」と呼ばれていました。
押し寄せてくる新しいニューメディア時代をどう生き残っていくか、放送業界の大きな課題でもあり、経営企画部の当面の研究課題でした。
当時のニューメディアは技術の進化によって出現してきただけに、業界の私たちにとってもなかなか理解しにくい分野でした。このとき私は40歳でしたが、新しい部署での最初の仕事は、地元の若い世代の人たちとニューメディアについて勉強するため、当時流行していた異業種交流組織を立ち上げることでした。
報道部時代に知り合ったいろいろな業界の人たちや同業他社の人たちなどと組織を作り、定期的な交流によって、新しい人脈を作ることができました。
その結果、おぼろげながらわかってきたことは、テレビ、ラジオはマスコミ媒体としてのパワーをしばらくは持ち続けることはできるが、ニューメディアも技術の進歩、発展によって、急激に成長してくるという実感でした。
1887年には、衛星放送やCATVの先進国であるアメリカの実情を視察しました。その後、1991年には㈱愛媛CATVが第三セクターの多チャンネルメディアとして開業しました。
1985年ごろ、サーバー内のコミュニケーションシステムとして立ち上がったパソコン通信が、一気にサーバーを超えて連携するインターネットとして進化していきました。
10年後の1995年ごろには、パソコンやスマートフォンを活用した画期的なインターネット技術の活用が社会全般に広まり、大きな社会変動をもたらしました。社内LANの構築によって、メディアの業界でも飛躍的な業務の効率化が進みました。またデジタル技術の発展によって通信手段が多様化し、情報の共有化がより広く、深く、そして高度になってきました。SNSによって個人の情報発信か容易になりましたが、一方では、マスメディアの情報との競合が顕著になり、大きな社会問題化してきています。
長い間、放送業界に身を置く企業人として、コンピュータ技術の進歩による大きな業界や社会の変動をリアルタイムで経験することが出来ました。
仕事から離れた現在、コミュニケーション手段の高度化、多様化が一層進む中で、改めてジャーナリズムの役割と責任を考え直し、マスコミ媒体としての自らの努力によって新しいポジションを確立していく努力の重要性を痛感しています。
このプロジェクトによって、メディアの進化に関連したアーカイブを作成することになりました。これを機会に、いろいろな方々のご協力をいただき、次のような項目についてレポートをしていきたいと思います。
- デジタル技術の進化と多様化による放送業界の変動
- 通信、コミュニケーション手段の進歩と報道活動
- ジャーナリズムの新たな役割と責任