宮本秀明の略歴

プロローグ
私が「電気」「無線」「通信」といったことに興味を持ったのは、テレビ放送の始まりの時期に出くわしたからかもしれません。小学生の頃でしょうか、父親が「知り合いの人がテレビを買ったので観においでというから、行こう。」ということで、父親に連れられてその知り合いの家に行った。その「おうち」は敷地もでかくて木もいっぱい植わっている庭のある家でした。今でいう富裕層でしょうか。うわ、ごつい家やと思いつつテレビの鎮座している部屋にいった。当時は当たり前ですが、白黒ブラウン管で見るテレビ放送でした。この時まだ宇和島ではテレビ放送が開始されてなかったので、その家ではテレビは買ったものの宇和島での放送はなかったので、山口県のテレビ放送を見ているとのことでした。ただ、その放送は音声は雑音にまざって聞こえるものの画面はホワイトノイズに埋もれた映像で、目を細めて見てやっとなんかが映っているのがわかる状態の画面の状態でした。うわ!これがテレビやと思う反面もっとはっきり映らんのかいと思ったのを覚えています。数時間そのノイズまみれのテレビを見せてもらい帰宅しました。
それから何カ月かして、我が家に「サカモト電気です、テレビ持ってきました」といってでかいテレビが届いて、お店の人が設置していた。私は興味深々でずっとくっついてその取り付けの様子を見てた。当然トランジスタやらICは使われてなく真空管がたくさんあるテレビだった。父親はまだ帰宅してなかったが母親はかなり機嫌が悪かった。父親が帰ってくるなり「こんなもの買ってどうするのよ、早く返してきて!」とかなり怒っていた。「置かしてくれというからいいよって言ったまでで、買うとは言ってない。」と父親は防戦いっぽうだった。しかしそのままそのテレビはそれからずっとうちに居座り続けていた。
父親は銀行員だったので、特に貸付担当が長かったようで、商売や事業されているお客さんのお世話が多く、いろいろ頼まれることも多かったようです。
ちょうど大学2年の夏休みに父親の勤務が愛媛県南予の御荘支店になっていた時、夏休みにその御荘の家に帰ってしばらくした時にすごくでかい地震があって、物凄くゆれて数値的には覚えてないけど家の土壁がいっぱい崩れて、これヤバい、どうなるのやろと怖かったのを思い出しました。
当時の御荘町で結構羽振りいい人もいた。毎年タイのパタヤへ遊びに行っている人もいた。父親の担当の人で親しくしていた人がいて、よくその話をしていた。その人は、ある日SKYLINEを持ってきて、「これ使ってええよ」とそのまま置いていったことがあった、しばらくは私が乗り回していたけどそのうち父親は日本酒の一升瓶2本持って宿毛の自動車教習所で運転免許を取ってきた。あの時、SKYLINEってモーターのようなエンジン積んだすごい車やと思った。
大学の2年の夏休みに、地域の人たちと一緒に食事する機会があった、父親の知り合いの人たちと。その時「ぼく、惜しかったのう、去年までは夏祭りの時に「夜這い」の習慣があったんやけんど今年から止めになったんよ」これも時代の流れ。それと愛媛県の明浜町で聞いた話です。この頃の話だと思いますが、明浜町は当時楽しみが少ない町で、遠くからお客さんが泊りがけで来られた時には、奥さんがお客さんと添い寝してもてなしていたという話を聞きました。どちらにしてもおおらかな時代でした。
沿革
宮本秀明は、大学卒業後、放送関係が好きだったので、放送局への入社を希望していた。しかし、このころ、私の卒業する時は愛媛の放送局は採用ゼロだったので、とある人にお願いして愛媛新聞へ入社となった。共同通信社からニュースを受けとるセクションで働くことになった。夜勤もあったが忙しくないセクションで暇な時間にほかのところでアルバイトしてたりしてた。それが結構楽しかった。デジタルICで回路を組んだりCPUチップの乗ったマイクロプロセッサーボードもアートワークから作ったり、そのボードを使って松下寿の生産ラインのビデオカメラのセットアップ工程のメカやソフト、東レで繊維の原液の粘度測定装置とか、井関農機の米の乾燥プラントの展示用の工程表示パネルなどを作って収めていた。当時松下寿にいた親しかった友達が2人いたが、過重労働で病気になり二人とも今はこの世にいない。ちょうどシーゲートだったか、アメリカのHDDメーカが御荘町にあった松下寿に生産依頼が来て、御荘町はその当時アメリカ人技術者がたくさん来てて、御荘の飲み屋さんなど毎日ちょっとした国際交流の場になっていた。しかし、それも数年で終わった。